「とにかく殺人であり、死んでいい命はないのだから、
どんな理由があっても、
よその子どもを殺すかもしれないと思わせるような素振りが
うかがえる暴力息子に、父親が手をかけたことを、
容認するような意見をメディアは絶対に言ってはいけないんだ」
……という意見はよくわからない。
「メディアとしての自戒」のように聞こえるけど、
弱者、底辺、社会の縮図というものに対する罪悪感に、
飲まれすぎているのでは?
そんな過剰反応していたら「模倣犯が出るから報道は自粛しろ」
というところにも行きつくし、ますます本気で論じることから
敬遠するばかりじゃないかと思う。
もちろん公の場で言うべきでないことはたくさんあるけど、
(…私みたいな、ネジの抜けた赤裸々人間が言うのも変だけど)
「そうですよね、思っても、言ってはいけないですよね」
みたいなやりとりをコメンテーター達がしているのは、
すごくいびつな空気に感じる。
いまは購読をやめたので読まなくなったけど、以前は、
朝日新聞デジタル版の「きょうも傍聴席にいます」という
コーナーを愛読していた。
そこには、どうして加害者が一線を越えてしまったのかを
考えさせる人間の物語がたくさん描かれていた。
家族間で、苦しみの末とうとう凶暴な息子を殺害してしまった
という殺人事件もあった。介護疲れの末の殺人も。
裁判官が述べる情状酌量の理由に泣けてくるものもあった。
一体なにが「悪」なのだろうかと、たびたび考えさせられたよ。
弱い立場の人間を支えようという優しさや取り組みは、
もちろん必要だし、情報はどんどん広めてもらいたいけど、
同時に、人間の暗部をまっすぐに見る強さも必要なのでは。
「弱者」「底辺」「マイノリティ」「社会の縮図」に対して、
過剰な罪悪感を植え付けるようなものの言い方は、
どうもその暗部から目をそらし、人間を理解する力を奪うのでは
ないかと思えてくる。